
1.挫折から「世界の焼き手」へ
六本木ヒルズ。その洗練されたビルの中で、炭火の熱気と戦い、一本の串に命を吹き込む職人がいます。そのなかで、誰よりも静かに、しかし熱く闘志を燃やしているのが、Tさん(23歳)です。彼女はいま、人生最大の賭けに出ようとしています。
目的地は、シンガポール。2026年4月にリニューアルオープンを予定している店舗の「メインの焼き手」という、逃げ出したくなるほどに重いバトンです。数年前、フランス料理人に憧れ、調理学校に入学するもその複雑さに一度挫折していた一人の若者が、なぜチャンスを掴み取れたのか。これは、一人の女性が「熱意」という唯一の武器を手に、自らの手で運命を切り開くプロジェクトです。
2. 覚悟の背景:「自分に務まるはずがない」という本音
「海外に挑戦したい!」。彼女は入社直後から、そう豪語し続けてきました。技術はもちろん、その熱量が経営陣の記憶に刻まれていたからこそ、チャンスが巡ってきた際に、彼女に白羽の矢が立ったのです。
しかし、いざ打診を受けたとき、最初に込み上げてきたのは高揚感ではなく、底知れない恐怖でした。 「正直に言って、最初は『自分に務まるはずがない』とお断りしたんです。自分一人の腕で焼き場を背負い、お客様を満足させられるのか。そのプレッシャーが怖くて、たまらなかった」。
そんな彼女を動かしたのは、自分自身の「後悔したくない」という本能でした。 「完璧な準備ができる日なんて一生来ない。今挑戦しなければ絶対に後悔する」。 その思いが、彼女の震える足を一歩前へと進ませたのです。
3. 夢への第一歩:挫折の先にあった「和食」という光
入社3年目にして、焼き場と日本酒の管理という「店の心臓部」を任されているTさん。しかし、そのキャリアの起点は、意外にも「フレンチ」の世界でした。
「技術を身につけて海外に挑戦したい」という夢。彼女はその第一歩として、調理学校へ進学し、華やかなフランス料理を専攻します。 「ドラマの世界に憧れて飛び込んだんです。でも、実際に学んでみるとその技法はあまりに複雑で……。理想と現実のギャップに、早々に挫折してしまいました」

一度は折れかけた心。それでも「海外へ」という夢だけは捨てきれなかった彼女が出会ったのが、素材の命を炭火で引き出す、シンプルで奥深い「和食・焼き鳥」の世界でした。
彼女を虜にしたのは、シンプルゆえの奥深さでした
「毎日、何百本と焼いても、一度として同じ状態はないんです。炭のおこし方ひとつ、置く場所ミリ単位の差で、鶏の表情がガラッと変わる。焼けば焼くほど、新しい課題が見つかるんです。この繊細な日本の食文化を世界に届けたい。そう確信したとき、迷いは消えました」。
4. 執念の突破口:海外挑戦の前に立ちはだかった「12回の落選」
実は、海外進出の話が舞い込む以前から、彼女の前には高い壁が立ちはだかっていました。職人としてお客様の前に立てるかどうかを問う、「焼きの技術試験」です。
この会社には、どんなに経験を積んでも、独自の厳しい社内試験をクリアしない限り「焼き場」には立てないという共通のルールがあります。串の打ち方から、炭火のコントロール、そして絶妙な火入れのタイミング。そのすべてが、店主が納得するレベルに達していなければなりません。
彼女の前に立ちはだかったのは、東京店舗の店主・Iさん。彼の厳しいチェックをくぐり抜け、味・火入れともに完璧な串を出し続けなければならない。
合格まで、計12回。彼女が大切にしたのは「師匠から学ぶ時間」を自ら作ることでした。Iさんの時間をいただくため、ランチとディナーの間のアイドルタイムや営業後の深夜など、自らIさんの予定を確認しては、指導の時間を予約。Iさんもまた、そのTさんの真っ直ぐな熱意に応え、焼きの極意を惜しみなく伝授してくれました。
「もっとこうした方がいい」「炭の配置をこう変えてみて」――。練習・試験のたびに返ってくる細やかなアドバイスは、厳しくも愛に溢れたものでした。

また、毎日その日試した内容をノートに書き記しました。
「炭の配置をこう変えたら、火の入り方が変わった」「明日はもっと火の位置をこうしてみよう」
そのメモを読み返し、身体に叩き込みながら、また翌日の炭に向かう。一人炭の熱と向き合う時間は、自分との戦いでした。
六本木の厨房には、彼女と同じように「手に職を」と志すベトナム人スタッフたちも多く在籍しています。 国籍も性別も関係なく、同じ焼き場を目指して切磋琢磨し、互いの成長を見守り合う。それが、彼女が日々を過ごす「当たり前の景色」でした。
そんな中、連続で8回もテストに合格できず、激しく落ち込んでいるとき。そんな彼女の背中を叩いたのは、共に働くベトナム人スタッフたちの言葉でした。
「今空いたから練習できるよ!行ってきなよ!」
彼らは良い意味で気を使いすぎず、いつも通りの明るさで声をかけてくれました。その屈託のない笑顔と「いつも通り」の一言で、また、炭の前に立つことができたのです。
暗闇の中をもがくような日々。しかし、その執念がついに実を結ぶ時が来ました。
「何度も振り出しに戻されて、そのたびに炭の置き方や火の位置をノートに書きなぐって……。あの泥臭い時間があったからこそ、やっとスタートラインに立てたんだなって、今は思います」
師匠のIさんから「合格」を告げられた瞬間、それは単なる「焼き手」という称号以上の、自分を信じ抜くための大きな自信へと変わりました。 12回の不合格を笑って共に乗り越えてくれた仲間たちへの感謝を胸に、彼女の技術と精神は、ついに世界へと飛び出す準備を整えたのです。
暗闇の中をもがくような日々。しかし、その執念がついに実を結ぶ時が来ました。 12回目の挑戦で、ついに合格を掴み取ります。
「勤労感謝の日でした。12回目のテスト。正直、受かった時は驚き半分、感動半分でしたね。でも、何度も振り出しに戻されて、そのたびに炭の配置や火の位置をノートに書き溜めて……。あの泥臭い時間があったからこそ、やっとスタートラインに立てたんだなって、今は思います」
何度も挑戦した後の合格。それは単なる技術の習得だけでなく、世界へ飛び出すための自信に繋がりました。
5. 運命を引き寄せた「海外視察」:あの景色があったから、今がある

地道な修行を続けていた頃、彼女は会社の制度を利用してシンガポールでの海外研修に参加しました。 この研修は単なる見学ツアーではありません。若手に本物の現場を体感させ、世界基準の視点を養うための非常に実戦的なプログラムです。
現地の日本食料理店や人気飲食店を巡る徹底的な市場リサーチを行いました。 さらに、自社の現地店舗では、実際に焼き場で直接のレクチャーを受けたりもしました。
日本とは勝手が違う環境で、現地の熱気に触れながら実際に焼く。 この経験を通して、彼女は「シンガポールで焼く」ということを、遠い夢ではなくリアルな目標として捉えるようになりました。
そこで感じたのは、「文化のギャップ」です。 現地では「チキン(鶏肉)」が安価な食材として扱われ、牛や豚に比べて価値が低く見られがちであるという現実。 彼女が愛する日本の「焼鳥」の繊細な技術やこだわりが、まだ現地の常識にはなっていないことを肌で感じました。
研修で現地のニーズと「埋めるべきギャップ」を具体的に見ていたからこそ、後に大きなチャンスが舞い込んだとき、彼女はそのバトンを掴むことができました。 若手にこれほどリアルな現場を任せ、投資してくれる会社の環境があったからこそ、彼女の「熱意」は「確かな覚悟」へと変わったのです。
5. 個人の変化:主語が「私」から「お店」に変わったとき
そんな修行を経て、彼女の職人としての意識も磨き上げられました。 「以前は『自分がどう焼くか』ばかりを考えていました。でも今は、主語が『お客様』や『お店』に変わったんです」。
例えば、小さいことですが、荷物入れの隅々まで掃除するのは、お客様のバッグを汚さないため。「店単位で物事を見る」という視点こそが、私の財産です。技術を磨くことは、心を磨くこと。プロとしての誇りが芽生えたとき、彼女の焼き鳥は、お客様を感動させる「作品」へと変わっていきました。
6. 未来の仲間へ:チャンスは「はい!」と言える準備をした者に来る
シンガポールでの目標は、ただ「焼く」ことではありません。スタッフ全員がお客様を主語に考えられる、「活気あるお店」を異国の地に作ることです。
「この会社は、本気で熱意を伝えれば、全員が耳を傾けてくれる場所です。海外視察のように、若手に本物の現場を見せてくれるチャンスもある。だから、何かやりたいことがあるなら、その火を消さずにアピールし続けてほしい。そしてチャンスが来たとき、堂々と『はい!』と言える準備をしておいてください」。
未経験でも、若くても関係ない。あなたの熱意が、この会社で新しい歴史を作る。その瞬間は、もうすぐそこまで来ています。